Saturday, November 19, 2005

[農暦10月19日] やっぱり「大菩薩峠」

[農暦] 10月19日 [月齢] 16.6 居待月 [潮汐] 大潮 [勝間の天気] 快晴
芝愛宕山の麓の住人、「ふたまたくん」(久世光彦氏の著作にしばしば登城するのは彼です)から「大菩薩峠」と大逆事件との関係を聞いて以来、このことを気にしながら本を読んでいました。

読み終わるまで、人の解説は読むまいと思っていたのですが、歴史上の事件なだけに、ついついウェッブ検索をかけてしまいます。一通り目を通しますが、毒にも薬にもなりそうにありません。ただ一つ引っかかったのが<松岡正剛の読書術ー中里介山「大菩薩峠」>、これはまずかった・・・
何がまずかったといって、話の展開を種明かししていること。筋がありそうで全くない話ですが、彼なりの解説が的を得ているので、全体が見えてしまう。彼なりの全体とはいえ、時代背景も含めて述べているのでやはりまずかった。
ではわたしの勝手な引用を羅列してみますと・・・

------松岡正剛の読書術ー中里介山「大菩薩峠」から

・ 机龍之助のモデルは北一輝だという説がある。机龍之助の剣をラスコーリニコフの斧に、その性格をスタヴローギンに譬えた例もある。
 中里介山に、北一輝が二・二六事件の首領として代々木原で処刑された直後に詠んだ「北一輝の判決を聞く」という詩があった。どうも浅からぬ同情を寄せている。詳しいことはわかっていないようだが、二人には並々ならぬ交流もあったとも聞いている。

・ (本の大筋を述べた後)ざっとこういうことなのだが、さて、ぼくが『大菩薩峠』をなぜ読み始めたかは、そのきっかけをすっかり忘れていた。
 おそらくはそのころ、半村良の『妖星伝』で火がついた伝奇ロマン読み耽りが、自分のなかでも下火になってきて、もっと痛快なものはないか、もっと興奮覚めやらぬものはないかと白井喬二の『新撰組』や国枝史郎の『神州纐纈城』を読んで、やはりこれは中里介山だと一念発起したのだったとおもう。
 一頁読んで、たちまち虜になった。これは少年時代は別として、大人になってからはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』以来のこと、のちには滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』まではなかったことだった。

・ そう思ってこの文章を閉じようとしていたら、そういえば鹿野政直が『大正デモクラシーの底流』(NHKブックス)で、介山と『大菩薩峠』の意味を書いていたことを思い出した。
 しかもそこには、『大菩薩峠』がついに慶応3年のままに終わっていて、決して維新に入りこまなかったことにふれ、かくも大胆に維新の意義を否定したのは日本の歴史学には皆無であって、ひょっとしたら中里介山はそのような歴史観をもっていたのではないかというようなことを書いてあったはずである。

・ 中里介山が自由民権運動にも縁深い東京郊外の多摩の地に、社会主義青年として育ったこと、それにもかかわらず介山がずっと反近代主義に共感しつづけたこと、どうやら出発点はここにある。

・ 介山がキリスト教に惹かれ、それ以上に仏教に惹かれていったのは、このときである。かくて介山は「上求菩提下化衆生」という言葉を抱いて『大菩薩峠』を書きはじめることになる。

・ 介山が国家に包摂されない人間ばかりを好んで描いたことは明白である。それは介山が維新後半世紀をへた日本にそうとうに失望していたことをあらわしている。
 単なる失望ではなく、希望すべき階層や人物を見だしえなかったという失望であった。

・ それだけではなかった。ここで介山はいっさいの理想の現実化を捨てて、むしろ農本主義に戻ろうとする。第38巻「農奴」にはその転回が描かれる。また、『大菩薩峠』の途中でありながら『百姓弥之助の話』を書いて、百姓道を提起する。

・以上が、鹿野政直が『大正デモクラシーの底流』にのべた介山思想の概観に、ぼくが勝手な感想を交えたスケッチである。

------松岡正剛の読書術ー中里介山「大菩薩峠」から
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0688.html

ここから拾ったキーワードには

・明治維新の意義を否定
・反近代主義に共感
・農本主義に戻ろう
・国家に包摂されない人間ばかりを好んで描く
・仏教に惹かれる
などなど、わたし好みの言葉が並んでいました。

一昔前なら絶対に目を向けることのなかっただろう「大菩薩峠」、時代が読めといっているのでしょう。

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